モアイについて
1976年から1978年にかけて、モアイの創業者である井上はカナダからアメリカ大陸を縦断し、イースター島へモアイと出会う旅を試みました。23歳の時です。イースター島は名前こそよく知られていても、当時は訪れる人も少ない絶海の孤島でした。ほとんど金も持たず、すべて陸路で2年あまりに渉る旅でした。この旅で得た数々のことが後のモアイ設立の基となっています。
また、モアイを辞書で引くと「催合」という言葉に行き当たります、催合講とも呼ばれているそれは日本古来の相互扶助のシステムであったことを後に知りました。
モアイは独自の七宝焼の特許を元に1978年に七宝の工芸会社として始まりました。
それまで七宝の技法は全くの手仕事か、機械化された工場製品の両極端に別れていました。モアイの手法はシルクスクリーンの技法を七宝に取り入れたもので、様々のデザインに応用が可能でした。
その後、アパレル、雑貨を主体としたRAG、工芸、画廊等を営む109の両子会社を設立し、主要な大阪のターミナル・ショッピングモールを主に出店を繰り広げてきました。
2000年頃を境として、あらかじめマーケティングの準備されたモールからは少し距離をとり、変化して来た商業環境に適応しながら地域に戦略的な出店を行うことが主となってきました。船場や三休橋、中崎町などで街作りに参画した経験を経て地域の変化へと積極的に関わるようになり、街の中にふさわしい場所を見いだし、場所と人とを結びつける現在の活動スタイルを確立してきました。
「新しい世代の老舗」を作ろうとモアイは思っています。
時代の流れに左右されない質の高さ、地域に深く根を張った大木のような安心感を持つ店が一軒でも多く現れてくればと思い、そのためのビジネス・プラットフォームの創造を目指しています。
工芸から出発した私達には手仕事へのこだわりがあります。
世界的な逆境の中で見かけの経済はさらに落ち込んでいくようにも見えかもしれません。でも一方では工芸や芸術、料理等、手の仕事の分野にすばらしいものが現れてくる条件が整ってきたようにも見えるのです。
全てに質が問われる時代になって来た今こそ、新しい「手仕事の日本」を始めるときです。
伝統にこだわり、手仕事にこだわり、上質を求め続ける店を増やしたい、上質を求め続ける顧客を増やしたい。
そうモアイは考えます。
高島市は琵琶湖の北西に位置し、北には朽木村までを含む広大な地域を含んでいます。琵琶湖の水源をかかえ、水を通じて大阪と繋がっています。その高島市にモアイは本拠地を置いています。市からは指定管理者として水鳥観察センターの管理を委託されており、モアイの研究施設をここに構えています。
また2014年には今津浜通りに江戸時代から続く福田屋旅館を譲り受け5年ほどかけて復元改修いたしました。旧今津浜街道と小浜街道が交わる場所にあり今津のランドマークでもあった旅籠です。
かって日本海からの物資は小浜、敦賀から山を超え今津へ運ばれ船に載せられて琵琶湖を京都、大阪へと下って行きました。数多くの挿話を持った福田屋の2階からは視野全面に広がる琵琶湖が眺められます。それは水を介して私達のもう一つの拠点でもある大阪へと繋がっています。この水の繋がりを大切にその流れを都市に結びつけ、新しい時代の街作りに結びつけていく事が現在の課題です。
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モアイについて
1976年から1978年にかけて、モアイの創業者である井上はカナダからアメリカ大陸を縦断し、イースター島へモアイと出会う旅を試みました。23歳の時です。イースター島は名前こそよく知られていても当時は訪れる人も少ない絶海の孤島でした。ほとんど金も持たず、すべて陸路で2年あまりに渉る旅でした。この旅で得た数々のことが後のモアイ設立の基となっています。
また、モアイを辞書で引くと「催合」という言葉に行き当たります、催合講とも呼ばれているそれは日本古来の相互扶助のシステムであったことを後に知りました。
モアイは独自の七宝焼の特許を元に1978年に七宝の工芸会社として始まりました。
それまで七宝の技法は全くの手仕事か機械化された工場製品の両極端に別れていました。モアイの手法はシルクスクリーンの技法を七宝に取り入れたもので様々のデザインに応用が可能でした。
その後、アパレル、雑貨を主体としたRAG、工芸、画廊等を営む109の両子会社を設立し、主要な大阪のターミナル・ショッピングモールを主に出店を繰り広げてきました。
2000年頃を境として、あらかじめマーケティングの準備されたモールからは少し距離をとり、変化して来た商業環境に適応しながら地域に戦略的な出店を行うことが主となってきました。船場や三休橋、中崎町などで街作りに参画した経験を経て地域の変化へと積極的に関わるようになり、街の中にふさわしい場所を見いだし、場所と人とを結びつける現在の活動スタイルを確立してきました。
「新しい世代の老舗」を作ろうとモアイは思っています。
時代の流れに左右されない質の高さ、地域に深く根を張った大木のような安心感を持つ店が一軒でも多く現れてくればと思い、そのためのビジネス・プラットフォームの創造を目指しています。
工芸から出発した私達には手仕事へのこだわりがあります。
世界的な逆境の中で見かけの経済はさらに落ち込んでいくようにも見えかもしれません。でも一方では工芸や芸術、料理等、手の仕事の分野にすばらしいものが現れてくる条件が整ってきたようにも見えるのです。
全てに質が問われる時代になって来た今こそ、新しい「手仕事の日本」を始めるときです。
伝統にこだわり、手仕事にこだわり、上質を求め続ける店を増やしたい、上質を求め続ける顧客を増やしたい。
そうモアイは考えます。
高島市は琵琶湖の北西に位置し、北には朽木村までを含む広大な地域を含んでいます。琵琶湖の水源をかかえ、水を通じて大阪と繋がっています。その高島市にモアイは本拠地を置いています。市からは指定管理者として水鳥観察センターの管理を委託されており、モアイの研究施設をここに構えています。
また2014年には今津浜通りに江戸時代から続く福田屋旅館を譲り受け5年ほどかけて復元改修いたしました。旧今津浜街道と小浜街道が交わる場所にあり今津のランドマークでもあった旅籠です。
かって日本海からの物資は小浜、敦賀から山を超え今津へ運ばれ船に載せられて琵琶湖を京都、大阪へと下って行きました。数多くの挿話を持った福田屋の2階からは視野全面に広がる琵琶湖が眺められます。それは水を介して私達のもう一つの拠点でもある大阪へと繋がっています。この水の繋がりを大切にその流れを都市に結びつけ、新しい時代の街作りに結びつけていく事が現在の課題です。